今日の聖句3月14日(日)\(^o^)/ 見よ、その時代が来る。─神である主のことば─そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である アモス8:11 しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」 ルカ11:28 *************** 今週のテーマ:復活への予告 きょうの聖書:マルコ8:31-9:1 マルコの福音書8章34節35節 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。 「十字架への道」 きょうの聖書は、過越し祭りに参加するためにガリラヤからエルサレムに登っていく道中のことです。その過越し際の中でイエス様は十字架にかかります。イエス様には自分の死が世界の人々の救いのためにはなくてはならないことが明らかになっています。しかしペテロにはそれが分かりませんので、イエス様をいさめてエルサレムへ行くなと訴えたのです。 「十字架を負う」とは罪を認めて処罰を受けるということです。イエス様に従おうとする中で「私は悪くない」「私には罪はない」「私は無罪だ」と言ったなら前途はありません。しかし、「私は罪人です。」と罪を認めてキリストに悔い改めるなら私たちに再び生きるいのちの道が開かれます。 自分が幸せを勝ち取ろうと思ったら、他人を不幸にします。しかし、他の人を幸福にしようと思えば、他の人が幸福になり、自分も幸せを実感できます。イエス様に幸福になって貰いたいという気持ちで、イエス様のために自分の幸福を捨てて生きるなら、イエス様からまことのいのちをいただけます。 「わたしに従って来たければ」と招いておられます。無理矢理に「ついて来い」と強制なされません。嫌々ながら自分を否定したり、嫌々で十字架を担いでも意味がないことです。イエス様は本当に自分から進んで「ついて行きたい」と思う志願者を求めておられます。イエス様に従って十字架の道を進み、隣人の救いに仕えていきたいと思います。 祝福を祈ります。