今日の聖句3月13日(土)\(^o^)/ くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る。 箴言16:33 あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。 ヤコブ 4:15 ************** 今週のテーマ:不安と希望 きょうの聖書:イザヤ53:1-12 イザヤ書53章2節3節4節 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 「贖い」 神様はイザヤに救い主(メシヤ)のお姿を見せました。彼と呼ばれているお方は私たちの罪の苦しみを一身に背負って死刑に処せられたのです。救い主は神の民が政治的にも宗教的にも軍事的にも衰え果てた時に勢いよくエルサレムに登場しますが、誰からも尊敬されることなく、ごみのように扱われたのです。 当時の宗教指導者たちは、救い主を神様を冒涜する大罪人として殺したのです。ところが、それは神様の御計画の中にあったことで、当然処罰されなければならない私たちの身代わりの死でした。聖書の中には贖 (あがな) いというテーマがあります。それは買い戻すという意味です。この贖いは救い主の犠牲によって成就しました。 様々な罪がありますが、救い主キリストが死ななければならなかった罪とは、私たちが造り主を忘れ、造り主を否定し、造り主に反抗して自分勝手な生き方をしてしまったということです。この罪を自覚させ、この罪を赦し、この罪から解放するためには神様のひとり子である救い主キリストが死ななければなりませんでした。 ほとんどの罪は謝罪し、弁償すれば赦してもらえます。しかし、神様に反逆した罪は「ごめんなさい」だけではおさまらないのです。神様ご自身による買い戻しである贖いが必要なのです。イエス様はご自分のいのちを私たちのための身代金として差し出して私たちを買い取ってくださったのです。イエス様によって買い取られた私たちは明らかにイエス様の所有になっているのです。 祝福を祈ります。