今日の聖句3月9日(火)\(^o^)/ 私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。 ミカ 7:8 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。 1テサロニケ5:5 **************** 今週のテーマ:不安と希望 きょうの聖書: ゼパニヤ2:1-3 ゼパニヤ書2章1節2節3節 ともに集まれ、集まれ。恥知らずの国民よ。御定めが行われて、その日が籾殻のように過ぎ去らないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。 「キリストのために生きよ」 ゼパニヤはエルサレムでB.C.640年頃からB.C.610年頃まで活動した預言者です。それは、エルサレムがバビロニヤに滅ぼされる4・50年前のことです。同時期の預言者にはにはナホム、ハバクク、エレミヤなどがいました。きょうの聖書はゼパニヤがエルサレムの指導者たちに、近い将来のエルサレム滅亡に備えて悔い改めるべきことを訴えている言葉です。 この時期は既に北イスラエルは神様の裁きを受けてアッシリヤ帝国に滅ぼされた後です。しかし、南ユダ王国も北と同様に偶像礼拝にどっぷりつかり、抜き差しできない状況に至っていました。ゼパニヤはエルサレムの民を「恥知らずの国民」と呼んでいます。罪びとは罪を犯しながら罪を恥じず、かえって、自分の罪を自慢するのです。それが恥知らずです。 しかし、ゼパニヤは「主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない」と語ってエルサレムを神様の救いに招いているのです。神様は愛と真実のお方です。悔い改めて神様に帰ってくる人には必ず憐れみを与えてくださいます。私もその憐れみのおかげて救われた一人です。 恵みの時、救いの機会は風に吹きはらわれる籾殻のように飛ばされてしまい、元に帰ってこないのです。ですから神様の裁きが宣告される前に、つまり、神様の怒りによる滅びが来ないうちに自分を反省して悔い改めて、償いを果たしなさいということです。今の時代の偶像礼拝は自分の悪い欲望を満たすために生きる生き方です。キリストのために生きるものでなければなりません。 祝福を祈ります。