今日の聖句3月1日(月)\(^o^)/ 父は言った。「さあ、行って、兄さんたちが無事かどうか、羊の群れが無事かどうかを見て、その様子を私に知らせておくれ。」こうして彼をヘブロンの谷から使いに送った。 創世記37:14 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。 ピリピ2:4 ************* 今週のテーマ:十のいましめ きょうの聖書:マタイ15:1-9 マタイの福音書15章7設8節9節 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」 「口先信仰」 弟子たちが手を洗わずにパンを食べたことをパリサイ人たちが咎めたことに対して、イエス様はパリサイ人たちも律法に違反した生活をしていることを指摘した上で、手が汚れているよりも、心が汚れている方が他人を汚してしまうものだとだと語り、心がきよめられなければならないことが教えられています。 イエス様は、パリサイ人たちに、自分たちは、「あなたの父と母を敬え」という十戒の根幹にある教えを、「私からあなた(親)に差し上げるはずの物は神へのささげ物になります」という詭弁にすり替えていると指摘しました。親を助けるはずの金銭は神殿に献金しましたから父母を敬えという掟は達成されていますという言い逃れです。 パリサイ人たちはイエス様を殺害する目的で、逮捕するきっかけを求めて言いがかりをつけているのです。イエス様の弟子たちが「手を洗わない」ことをののしりました。ののしりは「誹謗、中傷、、悪口、雑言」などとも言われます。汚れた心から出る、これらの悪い言葉は私たちの礼拝を汚し、私たちの交わりを損ないます。 偽善とは、善良の振りをすることです。偽善を行う者は偽善者とよばれます。 精神的な偽善は、外面では善い行為に見えても、それが本心や良心からではない心理状態を指し、行為としての偽善は、隠れて悪事を行う為に善行を装う事です。イエス様を陥れようとするパリサイ人たちは、自分の偽善を悔い改めなければならなりません。私たちにも口先信仰があれば悔い改めが必要です。 祝福を祈ります。