今日の聖句2月14日(日)\(^o^)/ 主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。 詩篇29:11 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。 エペソ2:17 ***************** 今週のテーマ:ゆるし きょうの聖書:マタイ18-23-36 マタイの福音書18章24節〜28節 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。 「最終の義は赦し」 これは、イエス様が語られた赦すことについての譬えです。王は神様、一万タラントは一国の王権に匹敵する金額、百デナリは百日分の日当に相当します。王様は負債者の返済不能な負債を全額免除しましたが、その負債者は自分がお金を貸している仲間が返済できなかったので「首を絞めて、借金を返せ」と言って獄に送ってしまいました。それを聞いた王様は怒ってこの一万タラントの負債者を、借金を全部返すまで彼を獄吏に引き渡した(34節)ということです。 私たちが神様を否定し、神様の王者的栄光を汚してきた大罪に比べれば、どうして神様に仕える教会の仲間同士で、これ以上泥仕合を演じ続けていて良いものでしょう。私たちが神様への罪を全く償えずに悩んだことを思うなら、どうして、兄弟への憐れみの心を閉ざし、兄弟の首を絞め、ののしりや罵倒の穴に閉じ込めることができるでしょう。 私たちが神様の一方的な憐れみによって罪を赦されたおかげで、今があるのだとすれば、どうして、お前は私のこれを盗んだ、あれを奪ったと言って怒ることができましょう。私たちが赦された背後には神様の御子イエス・キリストの大きな犠牲があったことを忘れてはならないのです。 キリストによって贖われ、神様の憐れみによって罪を赦されたものは、兄弟から罪を犯されたからといって、怒る理由も恨む権利もありません。私たちは兄弟を七度を七十倍するまで赦しましょう。赦すことが神の国の義だからです。赦すこと以上の義はないのです。赦すことが最終の義です。 祝福を祈ります。