今日の聖句2月7日(日)\(^o^)/ わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。 イザヤ65:1 主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。 ルカ14:23 *************** 今週のテーマ:クリスチャンの自由 きょうの聖書:ヨハネ12:20-26 ヨハネの福音書12章24節25節 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。 「一粒の麦」 これは、イエス様の弟子になりたいと申し出たギリシヤ人に向けて語られた言葉です。一粒の麦とはイエス様のことです。豊かな実とはイエス様に従って一粒の麦となるクリスチャンのことです。イエス様が死ぬことによってイエス様を手本として生きるクリスチャンが生まれる。それによってイエス様は栄光を受けるということです。ついにイエス様が栄光を受けるときが来ました。 自分のいのちを愛するとは、自分の保身を優先にすることです。悪く言われたくない、安楽に生きていたい、犠牲はになるのは嫌だ。そういう気持ちで生きていることが、自分のいのちを愛すということです。その結果は無意味な人生になってしまうのです。それは、ギリシヤ人でもユダヤ人でも同じです。 この世でそのいのちを憎む者とは、隣人の幸福のために支援し続けていく生き方をする人です。それがイエス様に仕えて生きていくということで、犠牲を厭わずに生きる生き方です。イエス様が死ぬことによって、犠牲を厭わずに生きるクリスチャンが続出してくる、そのようにして御父は御子に栄光を与えるのです。 私たちは自分の保身を求めて、自分の幸福を失う者でなく、イエス様を愛して、イエス様に仕え、自分の幸福よりも、隣人の幸福を求めて生き、相手の幸福が自分の幸福、相手の成功が自分の成功というように、幸福を共有する生き方に目を向けさせていただきたいものです。イエス様がご自分のいのちを捨てて私を幸福にしてくださったかのですから。 祝福を祈ります。