今日の聖句1月15日(金)\(^o^)/ そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 創世記3:6 イエスはまた、彼らに一つのたとえを話された。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか。 ルカ6:39 *************** 今週のテーマ:献げる きょうの聖書:ヨブ1:20-22 ヨブ記1章20節21節22節 ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。 「主を信じるだけ」 これは、ヨブが子どもたち全員と持っていた全財産をすべて失った時に捧げた神様への賛美の言葉です。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」よくまあこのような素晴らしい信仰を神様に捧げることができたものだと思います。 私は、アブラハムが一子イサクを捧げたことも、ヨブがすべてを失ったこともヨハネ3:16 にある「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」という神様の御計画に通じていると感じています。 身体的に大きな試練を受け、経済的に大打撃を被り、これでは生きていけないという絶望にも近い心境を味わうと、神様が私たちを救うために支払った犠牲の意味と価値が分かるような気がします。そしてその犠牲の中にある神様のとてつもなく大きい愛に圧倒されてしまいます。 私にはアブラハムのような従いはできないかもしれないし、モーセのような働きはとてもおぼつきません。ヨブの様に神様を賛美できたらいいなと思うばかりです。しかし、何もできない私たちの代わりにイエス様が全部成し遂げて、私を信じなさいと言ってくださいます。キリストを信じ続け、キリストに頼り続けて人生を全うしたいと思います。 祝福を祈ります。