今日の聖句12月21日(月)\(^o^)/ この民が口先でわたしに近づき、唇でわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れている。 イザヤ29:13 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。 1ヨハネ3:18 ***************** 今週のテーマ:贖い主の誕生 きょうの聖書:イザヤ53:1-5 イザヤ書53章2節3節4節 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 「贖い主」 ひこばえとは、孫生えと書き、切り株から出てくる新芽のことです。ユダヤ民族滅亡の後、救い主がユダヤ民族の生き残りの中から新鮮な信仰の贖い主として誕生するということです。ユダヤ社会は砂漠のようないのちのかけらもないような状況になるのですが不思議な生命の源泉の様に登場するというのです。 その救い主はあたかも人々の忌まわしい過去を背負ったかのようなみすぼらしい姿で登場し、信仰指導者からも侮辱されるほどですと言われています。しかし、その苦難のメシヤは、人々の悲しみを知り、病のつらさを知り、人々の悲しみと苦痛を身代わりになって引き受けてくださる方だと言われています。 初降臨のキリストは十字架で人々の罪の身代わりとして死ぬために生まれてくるのです。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」(5節)のです。今でも多くの人がキリストは伝道に失敗して十字架で殺されたと思っているのですが、違います。実は、神様は私たちを死と罪の中から買い戻すためにキリストを代価として支払ってくださったのです。 贖うとは、金銭を支払って物品を買い取ることです。ですから、キリストは私たちの「たましい」の贖い主と呼ばれるわけです。贖われた私たちは元々の造り主であり、元々の所有者であった創造者の愛の手のひらの中に戻ることができたのです。今私たちはキズも病も癒され、神様の愛の中で平安を得ているのです。 祝福を祈ります。