今日の聖句10月6日(火)\(^o^)/ わたしは二度と、わたしの顔を彼らから隠すことはない。わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐからである─神である主のことば。 エゼキエル39:29 神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。 1コリント12:3 ************** 今週のテーマ:思慮深くあれ きょうの聖書:エレミヤ5:7-9 エレミヤ書5章7節8節9節 これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせると、彼らは姦通し、遊女の家で身を傷つけた。彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。これらについて、わたしが罰しないだろうか。─主のことば─このような国に、わたしが復讐しないだろうか。 「貪欲罪」 エレミヤがエルサレムに対して、「神様は神の民が犯している偶像礼拝の罪によって神の民を滅ぼす」と語りましたが、エルサレムはエレミヤを侮辱し続けています。エルサレムの宗教指導者は偶像礼拝という言葉の意味が分からないのです。それでエレミヤは偶像礼拝とは姦淫と同じこだと言ったのです。 偶像礼拝とは自分の悪い欲望を満たそうとする気持ちのことです。パウロは偶像礼拝は「貪欲」と等しいと言っています。貪欲とはすべての物を自分のものにしてしまおうという欲望です。エレミヤはそれを「肥え太ってさかりのついた馬」と表現したのです。しかし、その言葉も偶像礼拝に埋没した人の心には届きません。 日本人の間で一つの基準になっている言葉に、「他人に迷惑をかけてはいけない」というものがあり、そこから「他人に迷惑をかけないなら何をしてもよい」という判断生まれます。この考えか方が、創造主の主権を無視する偶像礼拝であるのです。エレミヤは「遊女の家で身を傷つけた」という言葉で偶像礼拝は自分で自分の身に傷をつけるものだと言っています。 偶像礼拝は自分で自分に傷を与える罪であり、神様への反逆の罪であり、自然環境への罪でもあります。人類が偶像礼拝にふけっているのですが、キリストが私たちに与える救いは、自分との和解であり、神様との和解であり、環境との和解です。他人に迷惑をかけてはいけないことは当たり前です。神様と自分と環境への罪を意識しないならば自滅することになるのです。 祝福を祈ります。