今日の聖句8月25日(火)\(^o^)/ 私があなたの救いを喜ぶからです。 1サムエル2:1 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。」 ルカ1:46~48 **************** 今週のテーマ:必ずいます神 きょうの聖書:ローマ14:7-10 ローマ人への手紙14章8節9節10節 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。 「裁くな、見下すな」 私たちクリスチャンはキリストを主と呼びます。キリスト教用語では主は神様のことです。神様の聖名を直接お呼びすることは恐れ多いので「主」と呼んでいます。一般用語で主は「あるじ」であり、中心の存在です。私たちの生活は全面的に主に頼るものであり、主に生かされ、主のために生きています。 生きるのも死ぬのもすべて主のためだということは大げさなことではなく、現実の事であり、私たちにしては基本的な考え方です。そして、主である神様の至上の正義は「赦し」であり、解放です。イエス・キリストは十字架によって神様の正義を達成しました。全世界のすべての人の神様に対する罪をすべて赦免し、罪の縛りから解放してくれたのです。 それなのにキリストに赦されたはずのクリスチャンがお互いに裁き合うとは何事かとパウロは厳しくとがめています。ここでの裁くとは、有罪に決定するという意味で使われています。有罪無罪の決定は神様の専権事項です。キリストが無罪の判決を下したのに赦された立場の人が互いに互いを有罪にすることはしてはならないのです。 自分の兄弟を見下すなとも言われています。自分が裁き、見下している相手はキリストが自分の命を犠牲にして神の子にした人です。キリストが代わりに死ぬほど大事にし、その人が存在する値打ちをキリストの命よりも高く評価された人です。キリストのために生きる私たちは、決して他の人をさばいたり、見下したりしてはならないのです。 祝福を祈ります。