今日の聖句7月16日(木)\(^o^)/ 渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。 イザヤ55:1 わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。 ヨハネ4:14 ***************** 今週のテーマ:清い人は幸い きょうの聖書:マルコ6:1-4 マルコの福音書6章1節節3節 イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。 「清く正しく生きる」 イエス様の郷里はナザレ村です。ヨルダン川東部で伝道した後、ガリラヤで活動して、郷里に帰りました。ナザレはガリラヤ湖の西方30キロメートルほどの所にある村でした。イエス様の時代にナザレに住んでいた人は10家族ほどだったと言われています。村人はお互いに家族のようなもので、何もかも知り合った関係でした。今はクリスチャンの町となっています。 イエス様の両親、ヨセフとマリやがまれ育った村でもあり、イエス様の兄弟たちも村中でよく知られていました。そのイエス様が、「私が天から遣わされた救い主です」と宣言したものですから、村人には受け入れられませんでした。イエス様が人間であることが明らかであるのにイエス様が「私は神の子だ」と言ったからです。 一人の人が「人間であり同時に神である」ということは、普通の人間には理解できないことです。まして、親子兄弟が一緒に生活している小さな村ではなおさらです。ですから、イエス様が神様の御子である救い主であるということは拒否されたのです。村人たちはイエス様につまづいてしまいました。 しかし、イエス様の両親はつまづきませんでした。ご両親は心が清く正しい生活をしていたので神様のみことばも、イエス様の宣言もそのまま受け取ることができたのです。二人は神様から清さと正しさを認められて選ばれた人だったのです。私たちもより良いクリスチャンとして成長するためには、心を清められ、生活を正しくしていくことがなければならないのです。 祝福を祈ります。