今日の聖句7月12日(日)\(^o^)/ 主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。 ダニエル9:7 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 エペソ2:8 **************** 今週のテーマ:きよい人は幸い きょうの聖書:ルカ10:25-28 ルカの福音書10章25節26節27節 「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」 「疑いと罪」 これは、或る律法の専門家がイエス様を試そうとして発した質問です。この人は、律法の要点が神を愛し人を愛すことだと言うことを良く理解していました。問題はその律法を実行できるかどうかと言うことです。28節でイエス様はこの人に直接、「実行しなさい」と命じています。 イエス様はこの律法の専門家のこころの汚れを見抜いていました。それは聖書の知識だけで人を裁こうとする態度が見えていたからです。こころの汚れとは、人の動機の中に疑いと罪を含んでいることです。他の人を責めることは律法の趣旨に明らかに反しているのです。 逆に、心の清さとは人の動機が純粋な愛で統一されるところにあります。きよめられるとは、動機の中に疑いと罪が無くなることです。罪や疑いは私たちの信仰の中に僅かでも含まれていてはならないのです。罪とは敵対心のことであり、疑いとは、キリストの愛への不信感のことです。 キリストを信じて洗礼を受けた普通のクリスチャンはその信仰によってきよめられています。でも中には疑いと罪を持ったままで教会生活をする人も居ますし、私たちも時として、疑いと罪を持ってしまうことがあるかも知れないので時々はこの点をチェックして見ることも必要です。日曜日はそのチェックをする日かも知れません。 祝福を祈ります。