今日の聖句4月25日(土)\(^o^)/ まことに主は、あなたの父祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。 申命記30:9 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。 ヨハネ15:10 **************** 今週のテーマ:身を献げる きょうの聖書:ローマ6:8-11 ローマ人への手紙6章5節6節7節 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。 「十字架によるきよめ」 パウロはイエス・キリストの死は、罪びとである私たちの死であり、キリストの復活は私たちの復活であると語っています。私たちクリスチャンには大きな悩みがあります。それは、キリストを信じて洗礼を受け、クリスチャンになったのにもかかわらず、キリストを信じていなかった時と同じように罪を犯しているということです。 善を行う人でありたいと思うのに善を行えず、悪を止めたいと思うのに繰り返し悪を行ってしまうという問題です。警察に捕まるような罪を犯すわけではありませんが、自分の心の中で明らかに罪だと感じるようなことを止められないという悩みです。そう考えると自分は救われてないのではないかという気持ちも起こるのです。 そう考えるのは、キリストの死はキリストの死であり、自分の死ではないと考えるからです。キリストが死んだときに、罪びとである自分も死んでしまったのだと考えることが私たちの信仰です。罪びとである自分は既に存在しないのです。今生きている自分はキリストを信じて救われ、神の子とされた自分なのです。 ここに、キリストの十字架によって罪から解放された人の存在があるのです。パウロはこの11節で「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと認めなさい」と念押しをしています。キリストを信じているとき私たちの心には全く罪はなく、完全にきよくされているのです。ただ、いのちを捨てて私たちのために死んでくださったイエス様に感謝するのみです。 祝福を祈ります。