今日の聖句4月10日(金)受難日’m(-_-)m’ ハレルヤ。幸いなことよ主を恐れその仰せを大いに喜ぶ人は。 詩篇112:1 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。 1ペテロ2:24-25 ***************** 今週のテーマ:十字架 きょうの聖書:イザヤ53:4-9 イザヤ書53章4節5節6節 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 「御子の死」 木曜日に最後の晩餐があり、イエス様はゲッセマネの園で祈り、その後オリーブ山へ登ってローマ兵に捕縛され、その夜から翌朝金曜日にかけて3回の裁判にかけられました。最後にピラトからユダヤ教指導者に死刑囚として引き渡され、そのまま鞭で打たれ、唾を吐きかけられながら処刑場であるゴルゴタの丘に引き立てられたのです。 処刑時間は午前9時でした。イエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を残して息を引き取りました。全く罪のない、聖であり正しいお方が私たちの罪と痛みと病を一身に背負って身代わりに死んでくださったのです。 多くの人はイエスは人生にしくじって殺されてしまったと思うかもしれませんが、実はそうではありません。私たちが救われ、いやされ、平安を得るためには神様の御子が犠牲の死を遂げなければならなかったのです。私たちの罪とは、私たちが「自分勝手な道に向かって行った」ということだったのです。 この53章でいう「病」とは不治の病という意味です。「痛み」とは死の痛みです。御子の死には人間には解決できないすべての問題を解決する力があるのです。私たち一人一人はこの十字架の力によって癒しと救いを与えられて今を生かされているのです。それぞれ抱えていた問題はみな違いますが、イエス様は十字架ですべての人に解放を与えてくださいました。十字架上のキリストを仰ぎ見つつ、今日の一日を送らせていただきましょう。 祝福を祈ります。