今日の聖句3月12日(木)\(^o^)/ 私の言い分を取り上げ私を贖ってください。あなたのみことばにしたがって私を生かしてください。 詩篇119:154 するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。 使徒8:31 ******************* 今週のテーマ:新しい教え きょうの聖書:マタイ6:1-4 マタイの福音書6章1節2節3節 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。 「キリストと共に善行」 「善行」という言葉は、ギリシャ語では「憐れみ」ユダヤの言葉では「慈しみ」という意味を持っています。「対人関係の義」が「善行」という言葉で要約されています。それを人前で行わないようにというイエス様の忠告です。人から感謝されたり、褒められたりすることを期待しての善行はすでに善行ではなくなってしまっています。 世の中には露悪趣味と言ってもいいような生き方をする人がいます。わざと人前で悪行を行い、自分を悪い人間だと見せつける人です。そのような人には、せめて、人前だけでも良い行いをしてもらいたいとも思います。そういう人の善行はしないよりはした方がいいのです。 しかし、善行、祈り、断食という信仰上の、いわば礼拝行為も他人からの評価を期待していては、神様に喜ばれることはありません。私たち牧師もこの罠に落ちることがあります。説教でいい評価を受けたいという気持ちになることがあるのです。ここではキリストと共に生きる善行が求められています。 他人のために行う善行ですから、自分が褒められるためという目的になってしまうと本末転倒になり、相手の心を無視する結果になるのです。クリスチャンとしての善行で相手を無視して傷を与えては、「しない方がいい」と言われても反論できないです。私たちはどこまでもキリストと共に生きているという気持ちを失わないようにしたいと思います。 祝福を祈ります。