お早うございます。今日の聖句2月3日(月)\(^o^)/ わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。 イザヤ45:24 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 ピリピ2:11 ******************** 今週のテーマ:主の望み きょうの聖書:ヨハネ15:5-10 ヨハネの福音書15章5節6節 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 「ぶどうの枝」 有名なぶどうの木の譬えです。イエス様はこの譬えでクリスチャンはキリストにつながっていなければならないと教えました。それは、ぶどうの枝がぶどうの幹につながっていなければぶどうの実を稔らせることができないのと同じだと説明しているのです。 樹木が大地から養分と水分を吸い上げて細かい枝と葉に養分と水分を送り続けるように、キリストは神様からの愛と恵をクリスチャンの心に注ぎ続けていてます。折られたり、切り取られた枝には水分も養分も届かなくなり、その枝は枯れて燃やされるだけになってしまいます。 イエス様が「わたしにとどまりなさい」と呼びかけています。キリストにとどまることを止めるとはイエス・キリストへ信仰を捨ててしまうということです。捨てないまでもキリストの愛に頼らないならば恵を失い、私たちの心は次第にキリストから離れることになります。 旧約聖書では「乳房の神」と呼ばれ、新約聖書では「慈愛の父」と呼ばれている私たちの神様です。私たちは幼い子どものように生活上のことも、信仰や心の問題もキリストに打ち明け、キリストに助けられて生きています。幼い子どもが母親を頼りにするように、私たちもキリストを頼りにしているならいつまでも基督に留まり続けることができるのです。 祝福を祈ります。