今日の聖句9月30日(月)\(^o^)/ あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。 詩篇56:8 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。 2コリント1:4 **************** 今週のテーマ:みことばの前進 きょうの聖書:ピリピ1:18-26 ピリピ人への手紙1章20節21節22節 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。 「キリストが生きる」 罪を犯して刑務所に入れられることは恥ずかしいことかもしれません。しかし、パウロはキリストへの信仰のために投獄されているので恥じることはなく、むしろ、その環境の中でも大胆に宣教できるので喜んでいると言っています。牢の外での伝道も、牢の中での伝道でも福音が広まればそれでいいというのです。 パウロは投獄されようが、処刑されようが、自由に伝道できようが、どのような立場であってもキリストが崇められればそれでよしと考えています。パウロは自分の人生でキリストが崇められることを望んでいるのです。生命や財産が守られることでの平安もありますが、キリストのために死ねることによる平安もあるのです。 パウロは自分の生死を自分で決めようとしはしていません。天の御国に帰るということは大きな楽しみであり、また、生きていて教会を励ますことができればその方がさらに良いとも言っています。パウロは、自分の存在の値打ちはキリストに決めてもらえるので平安があるのです。 「私にとって生きることはキリスト」と言われていますが、パウロにとってのいのちとは、パウロの魂に宿るキリストが生きているということです。キリストは永遠に生きる方であり、滅びるということのないお方です。このお方は人の死さえも世界の救いのご計画のために有効に用いてくださるので、死ぬことも益だと言えるのです。 祝福を祈ります。