今日の聖句6月1日(土)\(^o^)/ 主のみわざは偉大。それを喜ぶすべての人に尋ね求められるもの。 詩篇111:2 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 エペソ1:17 **************** 今週のテーマ:復活のキリストに出会う きょうの聖書:ヨブ19:25-27 ヨブ記19章25節26節27節 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。 「救いの予感」 ヨブは他の人には思いもつかないような大きな苦しみの中で、自分に救いがあること、自分を救う救い主がいること、その救い主が自分の面前に必ず現れることを確信していました。ヨブは希望を失ったことがありましたが、自分は滅びたとしても神様には滅びはなく、神様の真実は永遠であることを知っていたのです。 ダビデも詩篇16:10で「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです」という信仰を表明しています。このことばはペンテコステの当日にペテロが説教の中でキリストの復活を証ししたときに引用しています。 ヨブやダビデによって代表される信仰の偉人は、等しく、神様に希望をおき、神様が自分を救ってくれると確信しています。「神様だけが自分の幸福の源である」と信じることができる人こそ真に幸福な人なのです。ヨブもダビデも自分は幸福だといえるような環境で生きていたわけではありませんでした。むしろ私たちから見れば、御気の毒な状況の中での信仰生活でした。 実は、私たちも神様に希望をおいて教会を訪れたのかもしれません。キリストが自分の人生に救いを与えるのかもしれないという淡い希望だったのかもしれません。だからキリストの復活を戯言として無視することをしなかったのかもしれません。その小さい希望を神様は祝福して、今、私たちの面前に栄光のキリストを臨在させていてくださるのです。 祝福を祈ります。