今日の聖句5月23日(木)\(^o^)/ 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。 エレミヤ15:16 しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」 ルカ11:28 **************** 今週のテーマ:キリストの主権 きょうの聖書:マタイ20:20-28 マタイの福音書20章25節26節27節 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。 「たて上げ合う」 17節から19節でイエス様が十字架の死と復活を予告すると、21節で、ゼベタイの妻が自分の二人の息子をキリストの御国でキリストの右と左に座れるようにしてくださいと頼みました。イエス様は「わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです」と軽くいなしてしまいました。 そして続けて「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」と謙遜と従順を教えます。「しもべ」という言葉は「奴隷」という意味で、「仕えるもの」とは「給仕」又は「執事」と訳される言葉です。しもべも仕えるものも共に決定権を持たない立場で人に仕える人です。 イエス様は、私たちクリスチャンに謙遜を求めています。そして、他のクリスチャンの成長に役に立つ者であることを期待しています。「愛と宣教によるたて上げ」という聖協団の理念の「たて上げ」に当たる部分です。互いにたて上げ合うということがなければ、教会は教会として立ちゆきません。 教会とはたて上げの場と言われなければならないところです。イエス様は「贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」と十字架による模範を示されました。私もイエス様の十字架によって立ち直り、今もイエス様の十字架によってたて上げられつつあります。改めて教会の建て上げのためにキリストに仕えていきたいという思いを与えられています。 祝福を祈ります。