今日の聖句4月18日(木)\(^o^)/[洗足木曜日] 主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」 1サムエル16:7 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。 ルカ22:61-62 ***************** 今週のテーマ:主の苦難をしのぶ きょうの聖書:ヨハネ13:1-11 ヨハネの福音書13章4節5節 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。 「洗足の意味」 有名な最後の晩餐の中でのイエス様の洗足物語です。最後の晩餐は聖餐式と直結しています。聖餐式は私たちにイエス・キリストの十字架の死と復活によるたましいの贖いを教える儀式です。この洗足物語はイエス様が弟子たちの足を洗うという演技によって、罪の赦しとたましいのきよめを教えています。 この洗足物語の教訓の第一は、イエス様の十字架の死によるたましいの贖いの効果は客観的であるということです。ペテロの例にあるように意味が分かっていても、いなくても、イエス様の一方的な贖いの御業です。イエス様が救い主としての権威をもって為し遂げてくださった事実なのです。私たちとしては信じるだけです。 教訓の第二は、ここに示された、イエス様によるたましいの贖い、きよめの御業は私たちが天の御国へ入るために必要であり、極めて重要で不可欠なものです。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(8節) と言われるほど、洗われなければイエス様との関係が生まれず、天の御国に無関係なのです。(8節) 教訓の第三は、イエス様による贖いは十分であり、完全であるということです。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」(10節)で教えられています。イエス様はただ1回の十字架の死で全人類の全ての罪を赦したのです。あっちもこっちもとか、あの罪もこの罪もということはないのです。信じる前に犯した罪も、クリスチャンになった後に犯すかも知れない未来の罪も全部赦されているのです。 祝福を祈ります。