今日の聖句4月2日(火)\(^o^)/ イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。 士師3:9 イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。 黙示録1:5-6 **************** 今週のテーマ:十字架を背負う きょうの聖句:1コリント4:6-13 コリント人への手紙第一4章11節12節13節 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。 「神の国の視点に立つ」 コリント教会は開拓当初からしばしばトラブルを起こしています。コリントの町はギリシヤの有数の裕福な都市国家(ポリス)であり、その首都ともなっていました。町の中には厳しい序列があり、日常的に優劣を争う生活がありました。そういう風土の中に建てられた教会にも同じような争いがありました。 自分の方が相手より上位だとして相手を見くびり、侮辱することはキリストの生き方ではありません。クリスチャンとは一生を費やして謙遜と従順を身に着ける努力の中で生きていくものなのです。パウロはそのことをコリント教会に教えることに腐心しています。 それで、自分は飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません、と述べているのです。経済的にも政治的にも無力であり、世間的に言うならば、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすですとまで言っています。救いを受けて神の子とされて天の御国に生きるためには世間的な優劣の争いは無用だということです。 東大を出て大蔵省に入り上級官僚になる道に立つ争いは今でもありそうです。そのほかにも同じような争いは今後も絶えないかもしれません。しかし、クリスチャンの価値観は神の国の視点に立つというところにあります。キリストの心を自分の心として生きることが大事なことなのです。日本の教会の中にも牧師の方が偉いという意識があるかもしれませんが、そういう考えは排除されなければなりません。 祝福を祈ります。