今日の聖句3月8日(金)\(^o^)/ 主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。 ヨエル4:16 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。 ヘブル6:19 ************** 今週のテーマ:施す きょうの聖書:マタイ6:1-4 マタイの福音書6章1節2節 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 「善行」 「善行」という言葉は、ギリシヤ語では「憐れみ」。ユダヤの言葉では「慈しみ」という意味を持っています。「対人関係の義」が「善行」という言葉で要約されています。それを人前で行わないようにというイエス様の忠告です。人から感謝されたり、褒められたりすることを期待しての善行はすでに善行ではなくなってしまっています。 善行、祈り、断食という信仰上の、いわば礼拝行為も他人からの評価を期待していては、神様に喜ばれることはありません。私たち牧師もこの罠に落ちることがあります。説教でいい評価を受けたいという気持ちになることがあるのです。他人のために行う善行ですが、自分が褒められるためという目的になってしまうと本末転倒になり、相手の心を無視する結果になるのです。 善行で相手を無視して傷を与えては、「しない方がいい」と言われても反論できないです。かえって「お節介」になります。相手のためだと言いながら実は自分の気持ちが表面に現れてしまうのでごまかせません。気持ちというものは人の心に敏感に映っていくのです。 キリストの十字架によって贖われ、神様のものとなった私たちは、ひたすら、神様だけに注目し、神様だけを意識して生きることがが求められています。トルストイが作った「靴屋のマルチン」というお話は、マルチンの善行がキリストへの信仰の現れだったということが良く理解できます。 祝福を祈ります。