今日の聖句2月22日(金)\(^o^)/ そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。 イザヤ33:24 信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 ローマ5:1-2 *************** 今週のテーマ:忍耐 きょうの聖書:黙示録2:1-7 ヨハネの黙示録2章3節4節5節 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 「十字架の愛」 これはトルコのエーゲ海に近くにあるエペソ教会に対するキリストのメッセージです。エペソ教会は忍耐があり、正しさによって異端を見抜くことも知っていました。しかし、初めの愛から離れていることが指摘されました。愛はすべてを結ぶ帯なので、クリスチャンの忍耐と正しさも愛によって一致される必要があるのだと教えられます。 初めの愛とは、人がキリストを信じて罪を赦されたときに味わう十字架に現わされたキリストの愛であると思います。そこには生きがいと平安と心の底から湧き上がる大きな喜びがあります。私たちの忍耐には愛と喜びが土台になければならないのです。 モーセの十戒も、キリストの命令も中心点は神を愛し人を愛せというものです。私たちが神様を愛し、他の人を愛して生きて行ける力の根源はキリストが十字架で現してくださった永遠の愛です。キリストが与える永遠にして無限の愛を注がれ続けていることが私たちクリスチャンのいのちそのものであるのです。 自分の罪の深さがわかればわかるほど、神様の御子であるキリストが十字架で身代わりの死を遂げてくださったことの意味をより深く知ることができるのです。もしかするとエペソ教会は忍耐と正しさがあったのでそれによって自分の罪に対する意識がぼやけていたのかもしれません。今日もキリストの十字架から目を離さずに生きて行きたいと思います。 祝福を祈ります。