今日の聖句1月24日(木)\(^o^)/ 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」 エレミヤ31:9 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。 ルカ19:10 ***************** 今週のテーマ:神の約束 きょうの聖書:ガラテヤ3:15-18 ガラテヤ人への手紙3章17節18節 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。 「神様の契約は不変」 パウロは「神様からの祝福の約束」は遺言のようなもので、最終的には何も付け加えられることはなく、その通りに実行されるものだと語ります。神はアブラハムに子孫の祝福、多くの民の祝福を約束されました。そしてそれを契約として制定されました。 その約束の制定後、400年以上たってから作られた律法は、祝福の約束(契約)に代わるものではないのだというわけです。アブラハムと子孫への祝福は神の約束であり、律法を守ることによってもたらされるものではないのです。クリスチャンの生活には常に信仰が優先されるのです。 実は、その祝福の約束をイエス・キリストが私たちにまでもたらしてくださいました。キリストが遣わされて十字架で裁かれ、私たちへの律法の要求を満たし、相続の妨げである罪を取り除いてくださったのです。罪とは、祝福や活力、愛や希望から私たちを遠ざけてしまうからです。 それでは、律法の役割は何か?パウロはそれについて「私たちの違反を明らかにするために付け加えられたもの」だと語ります。つまり、律法は私たちを罪の自覚の中に閉じ込め、私たちにキリストが必要であることを悟らせるためのものなのです。律法自体が私たちに救いをもたらすものではないのです。 祝福を祈ります。