今日の聖句11月17日(土)\(^o^)/ あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。 イザヤ60:20 神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。 黙示録7:17 ***************** 今週のテーマ:患難との戦い きょうの聖書:ピリピ1:12-21 ピリピ人への手紙1章19節20節21節 あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。 「獄中のパウロ」 このこととは、投獄されていることです。獄に捉えられているパウロの心には常に喜びの念があったようです。パウロの投獄を喜んでいる人もいるし、福音を伝えるのに自分の利益だけを求めて活動をしている人もいることを知っていながら、パウロは「とにかくキリストが伝えられているのだから、私はそれを喜んでいる」と書いています。 自分のいのち、そのものが、すでにキリストに属しており、生きていられれば、獄にいようと自由になっていようとそれだけでキリストの何かが表明され、表現されることなので、うれしいと感じているようです。状況のいかんにかかわらず、キリストのいのちに覆われて生きているという感覚でしょうか。 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と書いていますが、ここでの死は投獄されていることです。信仰上のことで獄にいることがはっきりしているので、キリストを証することになるわけです。生きているなら人々に励ましの手紙を書いたりできるわけです。生きるにしても死ぬにしても、存在に意義があることをパウロは自覚しています。 そこにパウロのしたたかなまでの強さがあるように思います。獄中にあっても、状況を受け入れ、キリストを身近に感じながら、仲間のために祈り、手紙で叱咤激励しながら生きている使徒パウロです。積極的な生き方だなと思います。私たちにとって、自分の状況を受け入れることが難しいことがありますが、キリストが全部を知っていてくださり、しかも、同伴してくださっていることを認めることができると少し気持ちが軽くなるかもしれません。 祝福を祈ります。