今日の聖句10月14日(日)\(^o^)/ 主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。 民数記11:29 彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 ヨハネ20:22 ******************** 今週のテーマ:とりなしの祈り きょうの聖書:イザヤ53:8-12 イザヤ書53章11節12節 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。 「キリストのとりなし」 イザヤ書53章は全人類のために苦しみを負うイエス・キリストについて述べられています。神様が定めた救い主が栄光に輝く王ではなく、苦しむ下僕であると誰が想像することができるでしょう。これは人間のプライドや世俗的な考え方とは正反対のものです。神様は私たちの予想しない方法で行動されます。 旧約聖書の時代にはユダヤの人々は自分が犯した罪のいけいえとして動物の命を神様に差し出していました。この53章では罪のない神様の御子がご自分のいのちを私たち罪人のために差し出すのだと言われています。救い主の力と強さは謙遜と従順と慈愛によって確立されたのです。 神様の御子がなだめの供え物となるのです。それは、私たちが神様に受け入れられるようにするためです。私たちの罪をご自分の一身に背負われて、私たちと神様の間の和解を成立させて下さったのです。これほどの大きな愛に私たちはどのように応答すればいいのでしょう。 イエス様は十字架上で息を引き取るとき、「完了した」と言われました。私たちは自分の働きによってではなく、イエス・キリストのご受難によって神様との関係を正常にしていただきました。私たちはこれを【私のためだった】と信じて受け入れなければならないのです。これがキリストのとりなしです。 祝福を祈ります。