今日の聖句7月6日(金)\(^o^)/ 耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。 詩篇94:9 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」 1ペテロ3:12 **************** 今週のテーマ:神の前に立つ個人 きょうの聖書:哀歌3:1-26 哀歌3章22節〜25節 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。 「尽きない憐み」 哀歌はBC.580年にエルサレムがバビロン軍によって攻め滅ぼされたとき、荒れすたれたエルサレムの姿を嘆いてエレミヤが作った詩歌です。この滅亡は宗教家の偶像礼拝と政治家の不正が招いた結果でした。エルサレムの指導者はエレミヤの警告を無視するばかりか迫害を加えました。 エレミヤは国家としてのユダの国は滅びてしまったけれども、神様が国民を滅ぼさなかったということは、ただ、神様の恵みと憐みのおかげだと言って感謝しています。この憐みが永遠に尽きることがないので私たちはどんなときにも神様の励ましを心に受けることができるのです。 神様の恵みと憐みは毎朝新しくされます。それは神様が真実なお方であるからです。この神様に頼って生きることこそ私たちの財産です。エレミヤは深い悲しみの中で改めて救い主の到来を待つ信仰に立ち上がりました。神様が再びイスラエルを再起させてくださるという強い信仰です。 私は自分が交通事故死しななかったことも、他の人を事故死させなかったことも神様の恵みと憐みの結果だと信じて聖名を崇めています。今日まで多少の難点はあるものの大過なく牧師として神様に仕えて来れたのもただ神様の憐みの賜物であることを深く自覚しています。神様の真実な憐みは尽きることがありません。 祝福を祈ります。