今日の聖句4月17日(火)\(^o^)/ わたしの好む断食は、・・・飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。 イザヤ58:6-7 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。 1ヨハネ4:19 ***************** 今週のテーマ:あがない きょうの聖書:へブル10:11-25 へブル人への手紙10章19節〜22節 私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 「祈りと礼拝の生活」 聖所とは、礼拝場所であり、祈りの場です。ここでは祭司が毎日礼拝を捧げていました。至聖所はその奥に在って天井からつるされた大きな垂れ幕によって聖所と仕切られていました。至聖所は大祭司が年に一度だけ国民のために罪のあがなうための礼拝をする場所とされていました。 一般の人は聖所の庭で礼拝しました。神殿の周りには柵がめぐらされていて、外国人はその策の外で礼拝するように定められていたのです。ところが、イエス様の十字架によって私たち外国人も真の聖所に入れるようになったのです。それは、私たちも神の子とされ、永遠の御父である神様に直接礼拝を捧げられるようになったということです。 「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して」とは、至聖所と聖所の仕切りが神様と人々の間にあるべき親しくて親密な礼拝を妨げていたわけですが、イエス様の体が引き裂かれたことによって仕切りの垂れ幕が破きとられてしまったということです。それで、私たちは自由に祈り、自由に礼拝できるようになったのです。 イエス様の犠牲によって開かれた「私たちのためにこの新しい生ける道」とは、祈りと礼拝の道であり、感謝と賛美によって天の御国に向かう道です。私たちは、臆せず、ためらわず、両手をあげてまっしぐらに神様に近づき聖名を崇めて親しく、親密な礼拝を捧げることができるのです。 祝福を祈ります。