今日の聖句3月7日(水)\(^o^)/ 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。 エレミヤ31:8 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。 ヨハネ4:34 ****************** 今週のテーマ:荒野の道 きょうの聖書:1コリント10:1-13 コリント人への手紙第一10章1節〜5節 私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。 「キリストを礼拝する」 出エジプトはクリスチャンの罪からの救い、水をほとばしりだした岩はイエス・キリストに対比されています。出エジプトさせ、岩から出る水を与えた神様を信じることができなかった不信仰な人々はカナンまでたどり着くことができずに荒野で滅ぼされたのです。 コリントの教会の中に洗礼を受け、聖餐式に参加することさえできれば、救いは心配ないと思っている人たちがいました。パウロは旧約聖書の実例をあげて、それらの儀式を過信すべきではないと警告します。ここに書かれている「雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」とあるのは、キリストに属するものとなる洗礼を連想させる言葉です。 また「同じ御霊の飲み物を飲み」とあるのは、いわば、聖餐式を意識させるものです。「にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました」とパウロは書いています。それらの出来事は、クリスチャンを戒める前例として起こったのだと説明しています。 洗礼も聖餐も大きな祝福です。しかし、それらの儀式が人を救うわけではありません。救いは神からの賜物として一人一人に与えられるものなのです。救われたならば、感謝しつつ礼拝者として生きる意識がとても大切なのです。キリストを信じ、キリストを見上げて礼拝するということが何より大事なことなのです。 祝福を祈ります。