今日の聖句1月20日(土)\(^o^)/ 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。 創世記1:3 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 2コリント4:6 **************** 今週のテーマ:成熟する信仰 きょうの聖書:コロサイ2:16-23 コロサイ人への手紙2章19節20節21節 このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。 「キリストとともに生きる」 このくだりで批判されているのは律法的な生活をしている人々です。そしてパウロはコロサイ教会の信者たちにも律法的な信仰生活から離れて直接キリストにつながる信仰をもつようにと命じています。律法的な信仰は自己犠牲によって救いを得られるという考えに基づいています。 それは、旧約聖書の命令を文字通りに行うことによって救いを得ようという考え方です。私たちが救われたのはイエス・キリストの十字架の死と復活が私を救うためだったと知り、それを信じたからです。私たちにとって大事なことは、キリストにつながることであり、私の心と生活の中にキリストが生きていることを信じることです。 私たちは時々、律法主義的な考えにとらわれてしまうことがあります。なになにをしているから(あるいは、何々をしないから)自分の信仰は間違ってないと考えることです。私たちの救いは私たちの善行や自己犠牲の結果ではなく、ただイエス・キリストにだけ依存しているのだということをしっかり踏まえていなければなりません。 私たちはキリストの贖いの御働きにより、そして復活したキリストともに生きることにより、永遠の救いを得ています。すでに救われてキリストとともに生きている人には禁止条項は意味がないのです。丁度、幼児が乗る自転車の補助輪は自転車に乗れるようになった人には無意味であるのと同じことです。 祝福を祈ります。