今日の聖句12月31日(日)\(^o^)/ 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。 出エジプト 3:7 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ3:16 **************** 今週のテーマ:始めと終わり きょうの聖書:黙示録22:6-21 ヨハネの黙示録22章12節13節14節 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。 「いのちの木の実」 イエス・キリストは天地の創造者として始めから栄光に輝いている神様であり、最後に再臨して神の国の王となる最高主権者です。イエス・キリストは始めであり終わりである神様なのです。キリストを信じている私たちは今、このお方に直結して生きているわけです。 自分の着物を洗うとは、罪にまみれた自分の心と生活を悔い改めてきよめられるということです。きよめられた人の生活は神様に対して忠実になります。それは、罪を犯し続けていた人が、キリストに対して全面的な信頼をもって再臨を待ち望みつつ生きるようになるということです。 きよめられた人たちは新しい点のみ国でいのちの木から実を取って食べる権利が与えられているといわれています。いのちの木はアダムとエバが罪を犯したためにその実を取って食べることを禁じられた木です。キリストを信じた人はアダム以来の罪から解放されるのです。 私たちは自分も他人もきよめることはできませんが、全能の神であるイエス・キリストの十字架は私たちの過去の罪を赦し、私たちの心と生活を罪からきよめる力があります。私たちの過去も現在も未来さえもすべて始めであり終わりであるイエス・キリストにかかっているのです。 一年間の購読をありがとうございました。良い年をお迎えください。 ご多幸をお祈りいたします。