今日の聖句10月5日(木)\(^o^)/ 見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。 イザヤ50:9 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。 ローマ5:11 ************************* 今週のテーマ:教会の一致 きょうの聖書:ガラテヤ3:23-29 ガラテヤ人への手紙3章23節24節25節 信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。 「律法と約束」 ここでは、ユダヤ教の律法は人々をイエス・キリストへの信仰による救いに導くための養育係りだったのだと言われています。救いを受けた人は罪のしばりから解放されて自由になりますので養育係りは必要なくなります。人は子どもの頃は親の監督を受けなければなりませんが、成人した後は親の監督は無用になるのとよく似ています。 律法と律法主義は、形式的であり、条文を守れば救われるという考え方なので、表面的でうわべだけの信仰になります。礼拝をささげていてもうわべだけで合格になるようでは、キリスト教会の礼拝としては全く不十分なのです。神様との心の交流のない礼拝は礼拝とは言えません。 律法の反意語は約束です。聖書は神様と人間との約束を書き留めた本なのです。私たちは、聖書を読んで神様が与えてくださった約束を信じて救いの確信を頂いています。約束を信じる信仰はお互いの人格を認め合うことであり、心と心の繋がりの上に成り立つことです。 個人の心にも、教会内部にも律法主義的な部分があると、約束を信じることによる信仰生活の一致や調和が乱れてしまいます。信仰がスランプに陥るのです。ですからパウロは律法主義から離脱して、神様の約束に基づくイエス・キリストへの信仰に立脚して生きるように指導しているのです。 祝福を祈ります。