今日の聖句9月30日(土)\(^o^)/ 町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。 アモス3:6 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 ローマ14:8 ************************* 今週のテーマ:とりなし きょうの聖書:ピレモン1: 4-20 ピレモンへの手紙1章17節18節 あなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。 「ピレモンへのとりなし」 この手紙の登場人物はパウロと弟子のピレモン、もう一人はオネシモです。「あなた」はピレモン、「私」はパウロ、「彼」はオネシモです。オネシモはピレモンの奴隷でしたがピレモンのお金を持ち逃げしてローマに行きました。そこで、牢に入れられていたパウロから福音を聞き、悔い改めてクリスチャンになりました。 オネシモは故郷へ帰り、ピレモンにお詫びし、償いをする必要がありました。更にパウロはオネシモをピレモンの助手にし、いずれはピレモンの後継者にしようと考えていたかも知れません。それで、パウロはオネシモをピレモンの元に返すが、気持ちよく受け入れてほしいと頼んでいるのです。 ピレモンにしてみれば、赦しがたい罪を犯したオネシモですが、パウロにとっては有益な伝道者となるピレモンです。パウロはオネシモがピレモンから盗んだお金は自分が弁償するからピレモンを赦し、伝道者として教育して欲しいと頼んでいるわけです。これは、私たちの罪を身に引き受けて十字架で死んだイエス様の姿に似ています。 パウロはピレモンに対してオネシモを赦してくれるようにとりなしているのです。私たちもとりなしをするときには、「私に免じてこの人を赦してください」と言う場合があります。とりなす人はとりなされる人の負い目を自分で引き受けます。そこには負い目を持つ人に対する大きな愛があるのです。罪人はとりなしてくれる人がいないと立ち直りが難しいのです。 祝福を祈ります。