今日の聖句9月11日(月)\(^o^)/ あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。 ミカ7:18 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。 コロサイ2:14 ************************* 今週のテーマ:永遠の思い きょうの聖書:伝道3:1-11 伝道者の書3章11節 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 「畏敬の念」 この3章では1節〜8節までに人が何かの事を行なうには『時』というものがあることが述べられています。何かを行なうのには時期が問題だということです。昔、TPOという言葉が流行ったことがありました。 時(time)、所(place)、場合(occasion)に応じた 服装などの使い分けという意味で用いられました。状況把握に必要な三条件ということです。 しかし、神様がなさることにはこの三条件は該当されません。神様が行なわれることは常に完璧であり、失敗も間違いもないのです。ところが、私たちにはそれが理解出来ず、受け入れることが出来ないことが多いのです。神様は永遠という極めて永い時の中で働いておられるからです。 聖書の中で使用されている神という言葉と永遠という言葉はほとんど同義語です。神様ご自身が永遠であり、神様の存在が永遠なのです。そして、神様は私たちの心に永遠を与えられ、永遠への想いも与えられているのです。私たちには先天的に神様を想い、神様を慕う心が与えられているということです。 それで私たちは神様に対して「畏敬の念」を抱くことが出来るのです。その畏敬の念が土台となって礼拝と信仰が生まれているわけです。神様が私たちと同じように成功もすれば失敗もあり得るということでは、私たちと神様の関係はお友達の域を出ることは出来ません。永遠の中で私たちは生かされているのです。 祝福を祈ります。