今日の聖句5月26日(金)\(^o^)/ 神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに、南の天の室を造られた。 ヨブ9:8-9 彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」 黙示録14:7 ************************* 今週のテーマ:キリストの体なる教会 きょうの聖書:ヘブル9:23-10:10 ヘブル人への手紙10章4節〜7節 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」 「キリストの犠牲」 5節から7節までの「」内の言葉は、詩篇40篇6節とエレミヤ書とエゼキエル書からの引用です。これは、神様が空虚でむなしい動物の犠牲制度ではなく、人々に正しい心と従順を切望しているという旧約聖書の教えの中心的な部分です。ヘブル書の著者は詩篇40篇の言葉にキリストを当てはめています。 キリストは私たちのためにご自分の体を神様に完全に受け入れられる犠牲として十字架上でささげるために来られました。神様を喜ばせる生き生きした生き方とは、形式的な律法を守ることではなく、罪を赦していただくために信仰を持って神様のもとに来ることです。そして、神様を愛して従順になることなのです。 動物を犠牲にするということは、犯罪が如何に恐ろしいことであるかとか、犯罪の解決には生命が求められるということを人々によく理解させる効果があったのです。キリストの犠牲は、私たちに自分の犯した罪の深刻さを考えさせました。求道中の人は、自分が犯した罪が神様の御子を死に追い込んだということを理解できない場合があります。 自分が犯した罪が、どんな方法を持っても償いきれないということを知ったときに、キリストがいのちを犠牲にして自分を救ってくれたということを大きな感謝をもって受け取ることができるのです。この大きな愛に対して私たちはキリストへの誠実な愛と礼拝で応答するのです。キリスト教会の礼拝に現われる神様の栄光とは、イエス様が下さった計り知れない大きな贈物である救いの御業です。 祝福を祈ります。