今日の聖句5月14日(日)\(^o^)/ わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。 出エジプト6:7 私たちが神の子どもと呼ばれるために、─事実、いま私たちは神の子どもです─御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。 1ヨハネ 3:1 ************************ 今週のテーマ:みことばを語るもの きょうの聖書:イザヤ6:1-8 イザヤ書6章5節〜8節 「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 「イザヤの召命」 これはユダ王国のウジヤ王が死んだ年の出来事とされていますのでBC.735年ころと思われます。王朝は比較的に安定していましたが、信仰面では形骸化が進んでいました。ここに霊的汚れという問題が大きく現れてきます。1節から4節までに、礼拝中のイザヤに神様の光り輝く聖いお姿が示されたことが記されています。 神様の聖く輝くお姿に接したイザヤは自分の有様と比較して、「私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」と絶望状態に陥ってしまったことが記録されています。神様と自分とを引き比べれば誰でもそのような気持ちになるでしょう。 そこへセラフィムが飛んできてイザヤの唇に燃える炭を触れさせ「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」ときよめを宣言したのです。セラフィムの語源には「燃える」という意味がありました。ペンテコステの日に弟子たちの頭上に燃える舌のようなものが降ったという出来事にとてもよく似ています。 イザヤは神様の聖さを基準にして生きる人に変えられたのです。「わたしは誰を遣わそう」という神様の御声に、イザヤはためらわずに、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と応じました。自分や世間の基準ではなく、神様の基準によって聖く生きる人を神様はみことばを語る人として用いてくださるのです。聖霊によるきよめを受けてみことばに仕えるものとされていきましょう。 祝福を祈ります。