今日の聖句4月30日(日)\(^o^)/ 主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。 詩篇136:23 子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。 ヨハネ8:36 ************************** 今週のテーマ:この世にあって きょうの聖書:ピリピ1:20-26 ピリピ人への手紙1章20節21節 私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。 「生も死も」 獄に捉えられていてもパウロの心には常に喜びがあったようです。パウロの投獄を喜んでいる人もいるし、福音を伝えるのに自分の利益だけを求めて活動をしている人もいることを知っていながら、パウロは「とにかくキリストが伝えられているのだから、私はそれを喜んでいる」と書いています。 自分のいのち、そのものが、すでにキリストに属しており、生きていられれば、獄にいようと自由になっていようとそれだけでキリストの何かが表明され、表現されることなので、うれしいと感じているようです。パウロの生き方には、状況のいかんにかかわらず、キリストのいのちに覆われて生きているという印象があります。 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と書いていますが、ここでの死は獄中での死であり、福音のために獄にいることがはっきりしているので、死ぬこともキリストを証することになるわけです。生きているなら人々に励ましの手紙を書いたりできるわけです。生きるにしても死ぬにしても、存在に意義があることをパウロは自覚しています。 そこにパウロのしたたかなまでの強さがあるように思います。獄中にあっても、状況を受け入れ、キリストを身近に感じながら、仲間のために祈り、手紙で叱咤激励しながら生きている使徒パウロです。積極的な生き方だと思います。私たちにとっては自分の状況を受け入れることが難しいことがありますが、キリストが全部を知っていてくださり、しかも、同伴してくださっていることを認めることができると少し気持ちが軽くなるかもしれません。 祝福を祈ります。