今日の聖句4月2日(日)\(^o^)/ 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。 イザヤ48:10 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。 Uコリント4:11 ************************* 今週のテーマ:永遠のいのちのパン きょうの聖書:ヨハネ6:27-40 ヨハネの福音書6章35節 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 「いのちのパン」 私は、聖書を読むとき「イエス様は○○である方」とノートにメモしていきます。そうするとイエス様が私たちにとってどういう御方であるかがよく分かります。イエス様がどういう御方であるかが分かるとき、私たちは生き生きと信仰生活ができます。しかし、イエス様がどういう御方であるか分からなくなると私たちは空腹になったときのように力を失います。 ヨハネ15:7までに7つの「わたしは○○です」というイエス様の自己紹介がありますがその第1がこの「わたしがいのちのパンです」というものです。イエス様が命を与えるパン、いのちを養うパンです。すべての命は生きている命から生まれ、すべての命は生きている命によって養われます。無機物から命が生まれることはないのです。 命が命を生み出す力を持っているのです。赤ちゃんの命は生きているお母さんから与えられます。イエス様が生きている永遠のいのちそのものなので、イエス様はいのちを与えることができ、人のいのちを養うこともできるのです。イエス様が生きていることはイエス様の御復活が証明しています。人が生きるためにご飯を食べ米の命を摂取するように、人はキリストのいのちによって生きと生きと生きることができるのです。 食べ物を体内に受け入れるのは、それが食べられると信じなければなりません。「信じる」ということと「食べる」ことはと同じなのです。初めて入った食堂でどんな人が作ったかも知らずに、平気で信じて食べてしまいます。それなら、どうしてこれほどまでに私たちを愛してくださるキリストを心の中に受入れられない分けがあるでしょうか。イエス様はご自分をいのちのパンになぞらえて、こういわれました。「わたしがいのちのパンです。」 祝福を祈ります。