今日の聖句3月12日(日)\(^o^)/ 主はこう仰せられる。四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。 エレミヤ6:16 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちにならう者となるためです。 ヘブル6:12 ************************* 今週のテーマ:新しい契約 きょうの聖書:ヘブル9:11-15 ヘブル人への手紙9章13節14節15節 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。 「悔い改めと信仰」 モーセを通して与えられた旧い契約は、律法を守れば救われるというものでした。新しい契約はイエス・キリストを信じれば救われるというものです。旧い契約は新しい契約を肉眼で見えるようにするもので、いわば、ひな形的な契約です。新しい契約の中心点は、イエス・キリストの十字架の死と復活にあります。旧い契約の中心点は動物を人間の罪の犠牲にすることでした。 キリストの十字架の意味を理解させるために、神様は予め、人間が罪の苦しみから解放されるためには犠牲が必要であるということを予告していたのだということです。人間が犯す罪というものは断じて許可されるものではなく、罪を犯した人はどのような苦しみがあっても必ずその責任を果たさなければならないのです。 更に、私たち人間の心には、自分が一番偉い、自分が一番大切、自分だけは楽をしたい、何でも自分のものにしたい、という気持ちが潜んでいます。こういう罪に傾く傾向を心の中に抱えて生きているということが人間存在の実体です。聖書はこの問題を解決することを「きよめ」と呼んでいます。それは自己中心からの脱却です。 自分の犯した罪には自分で責任を取ることが必要で不可欠です。そして、日々を快活に生きるためには心がきよめられなければなりません。罪の償いを果たした上でイエス・キリストを信じることによって、過去の罪を赦され、イエス・キリストの十字架の力を信じることによってこころをきよめられるのです。悔い改めてキリストを信じる者が救われるということです。キリストの十字架にはそれに充分な力があるのです。 祝福を祈ります。