今日の聖句3月6日(月)\(^o^)/ ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 ルツ1:16 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 エペソ2:19 ************************ 今週のテーマ:ただ一つの目標 きょうの聖書:ピリピ3:8-16 ピリピ人への手紙3章8節9節 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。 「イエス様が一番」 かつて古代のユダヤの人々は自分の家に伝わる系図をことのほか大切にしていました。今でもその傾向が多分に残っています。それは系図によって自分がアブラハムの直接の子孫であることが証明されるからであり、自分が神様によって選ばれた特別な民に属す存在であることを保証されると考えるからです。 パウロはアブラハムの曾孫であるベニヤミンの子孫であることを証する系図を持ていましたし、ユダヤ教徒の中でも最も熱心な信仰心を持っていると認められていたパリサイ派の指導者の地位も持っていました。クリスチャンになってからのパウロはそういうものを持っていることを「損」と思うようになったのです。キリストを信じたらそういう見かけの物が「ちりあくた」と同然であると分かったのです。 アブラハムの家系の中に属すより、神の家族とされ、キリストに属す者とされたことのにより永遠の救いを与えられた恵の方が比較できないほど大きな出来事なのです。それは、パウロにとってはどんなに願っても獲得的なかった「義」を信仰に基づいて神様から与えられたということであり、義人として復活できるという望みが与えられたからです。 神様から「あなたは無罪です」という宣言を受け、「あなたを義人と認めます」という言葉を頂けるということが私たちを強め、ヨタヨタせずにしっかりと大地を踏みしめて生きることができるようにしてくれるのです。無限の赦しを与えてくださる御方が私たちの主イエス・キリストです。このことのためにイエス様はいのちを投げ出してくださったのです。私たちもイエス様が一番という信仰で応答したいと思います。 祝福を祈ります。