今日の聖句3月2日(木)\(^o^)/ 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。 詩篇42:2 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。 ローマ8:23 ************************ 今週のテーマ:全身を献げる きょうの聖書:マルコ10:35-45 マルコの福音書10章43節44節45節 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 「仕えるものとして生きる」 イエス様と弟子たちの一行がエルサレムに上る途中で、弟子のヤコブとヨハネが天の御国で、私たち二人をイエス様の右と左に座らせて下さいと頼んだときにイエス様が教えたことがきょうの聖書です。弟子たちはおのおのキリストに従うことに対する見返りを求めていました。 ヤコブとヨハネは天の御国での高い地位を望んだのです。しかし、イエス様は真の偉大さは他の人に仕えるときに得られるものであると語られたのです。現代の社会組織では、個人は自分の業績によって偉大さが評価されます。キリストの御国では相手の幸福のために仕える事が成功への道なのです。 それは、自分の必要が満たされることを優先するよりも、他の人の必要に仕えることを求めていく生き方です。私たち聖協団は各個教会が愛と宣教によって立てあげられるために仕え合いますという理念で活動しています。この考え方が各教会と教会員皆さんの各家庭に浸透するように努めているところです。 45節にある「贖いの代価」という言葉は狭い意味では奴隷を解放するための代金ということです。イエス様は罪の奴隷になっている私たちを解放する贖いの代金をご自分のいのちで支払うために天から来られたのです。決して力で人を支配するためではありませんでした。私たちも仕える者として更に整えられたく思います。 祝福を祈ります。