今日の聖句2月27日(月)\(^o^)/ まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。 詩篇33:4 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 マタイ5:17 ********************* 今週のテーマ:全身を献げる きょうの聖書:詩篇51:1-19 詩篇51篇17節 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 「砕かれた、悔いた心」 この詩篇51篇はダビデがウリヤという戦士の妻であるバテ・シェバと姦淫を行い、事態の発覚を恐れて夫のウリヤを殺害するという罪を犯した後、ナタンという予言者から罪を指摘されたときに、神様に対して悔い改めた祈りの言葉です。3節で「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります」とはっきりダビデは自分の罪を認めています。 姦淫と殺人という罪はとても重い罪です。しかし、神様は罪を犯した人と永遠に縁を切ってしまわれる方ではありません。真に罪を認めて悔い、且つ、再びその罪を犯さないならば罪を赦して、交わりを回復してくださいます。過去、3000年以上の長い年月の中で、この詩篇を読んで、自分の身の上に照らし合わせ、悔い改めて神様に立ち帰った人が多数在るのです。 神様はダビデの罪を赦し、ダビデと神様の交わりは回復されましたが、ダビデが犯した罪の結果はダビデ家の中に暗い陰となって残りました。ダビデの家には家庭騒動が繰り返し起こっています。罪は必ず直接当事者と関係者の中に極めて重大な不幸をもたらすのです。ダビデが国王として献げる全焼のいけにえも、むなしいことでした。 神様に対して献げられるべきは「砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」だと指摘されています。いわゆる善行は大事です。規律やルールを守ることも大事です。しかし、そういう外面的なことよりはるかに大事なことは、神様に対して私たちの「砕かれた、悔いた心」をささげることなのです。神様はそれを拒むことは決してありません。「私は悪くない」などという言葉は私たちの口から決して漏らしてはならないのです。 祝福を祈ります。