今日の聖句2月25日(土)\(^o^)/ 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。 詩篇73:25 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1ペテロ1:8 ********************* 今週のテーマ:宝を天に きょうの聖書:2コリント9:6-15 コリント人への手紙第二9章6節7節 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 「喜んで与える人」 「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」という勧めがあります。これは、どんな状況の献金だとしでも大切な指針です。無理強いされたり、出し惜しみしたくなるような心があるなら、むしろ、献金すべきではないのだろうと思います。自分のために使うべきです。使徒の働き5章にアナニヤとサッピラの前例があります。 「神は喜んで与える人を愛してくださいます」という言葉は大切です。その献金についての人からの見返りを求めるべきではないし、献金で神様に恵みの強要はできません。献金という行為自体を大事な「神様への礼拝」「神様への感謝」と理解することもできるのです。不承不承ではなく、無理強いされてでもなく、神様に感謝を表明すること。喜んで支援すること。そういう心を大切にしたいものです。 支援のための献金は、相手に対する善意が伝わるばかりでなく、相手が神様をほめたたえるようになり、神様の守りと祝福を祈るようになるとパウロは13節で書きました。献金が、献金の出来事だけで終わらずに、大きな関係の深まりを生み出すのだとパウロは教えています。特に、相手が神様を礼拝するようになり、相手が献金した人たちのことを神様に祈るようになるという交流の誕生と深まりをとても大事な出来事として指摘しています。 献金を受けた人たちが捧げた人たちに感謝をしない場合でも、支援の心が神様から与えられているのであれば、献金をすべきだろうと思います。報いをあまり期待せず、神様に献げるものとして献金はなされるべきです。人からの報いを期待しながらの献金は、期待はずれになることのほうが多いのです。いつしか、「献金してくれて当たり前だろう」というような気分を感じてしまうことさえあります。それにしても献金できるということは素晴らしい恵みです。 祝福を祈ります。