今日の聖句2月3日(金)\(^o^)/ 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。 詩篇34:2 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。 ピリピ 4:4-5 ************************* 今週のテーマ:従順を学ぶ きょうの聖書:ピリピ2:5-18 ピリピ人への手紙2章11節12節 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。 「キリストの主権」 イエス様が十字架の死に至るまで御父に従われたのは、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためですと解説されています。それは、御名が崇められるためということです。イエス様の従順によって御名が崇められ、イエス様の従順によって私たちに救いが届けられたのですから私たちは自分の救いを達成することに務めなければなりません。 洗礼を受けてクリスチャンになり天国への道を確保できたのでもう教会に行く必要はないと考える人がいるかも知れません。洗礼を受けたということは完成ではないのです。むしろ、神の子として新しく生まれた赤ちゃんに過ぎません。赤ちゃんは両親の養育を受けて成長し成人しなければならないのです。生まれた赤ちゃんが成人しないで死亡した場合は両親には大きな悲しみがあります。 私たちはイエス様の従順を学び、イエス様の従順をお手本にして生きる必要があります。私たちの信仰生活を通して御名が崇められるためには、私たちもイエス様と同じように謙遜と従順に於いて成長していかなくてはならないのです。私たちが毎日祈る主の祈りの冒頭にある「御名が崇められますように」という祈りは私たちの従順によって私たちの人生に実現するものです。 従順な信仰生活とは、私たちが自己中心な生き方を放棄するところから始まります。それは私たちが持っている権利の放棄であり、所有権、決定権、選択権、支配権などすべての主権をキリストに委ねて生きることです。私たち自身が日常の中でイエス・キリストを主権者として礼拝することが従順なのです。主権がキリストにあることを忘れては従順なクリスチャンとは言えません。 祝福を祈ります。