今日の聖句12月26日(月)\(^o^)/ 主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。 詩篇146:8 あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、知ることができますように。 エペソ1:18-19 *************************** 今週のテーマ:時の流れを超えて きょうの聖書:ローマ8:18-30 ローマ人への手紙8章23節24節25節 御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。 「復活への希望」 私たちはキリストの再臨と神の国を待ち望む信仰とこの信仰に基づく祈りである祷告を教えられてきました。その中心は私たちのからだが贖われることであり、復活への希望です。復活への希望が私たちの救いになっているのです。祷告とは被造物全体が贖われることを求める祈りであり、聖書に約束されたことで未だかつて実現したことのないことの成就を祈ることです。 宇宙空間と永遠の時間を超越した存在である神様に直結する信仰でです。神様と共に無限に共存できるいのちを与えられているのが私たちクリスチャンです。この巨大な希望を目の前にしている私たちは一切の妨げを克服して忍耐をもって熱心に待ち続けているわけです。使徒信条は「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。」と結ばれています。 私たちは栄光の姿になって天へ昇られたイエス・キリストと同じ姿で復活できるのです。その前提になるのが私たちが聖霊を受けているということです。キリストを自分の救い主であると信じることができたのはその人の心に聖霊が宿ったためです。もし私たちの中に聖霊が宿っていないならば神様に感謝することもキリストを礼拝することもできないのです。 私たちはイエス・キリストの十字架と復活によって救われたのですが、罪の赦しという救いはキリストが私たちのために備えた救いの一部であって全部ではありません。復活という救いが将来私たちに与えられるのです。ですから、からだによみがえりの恵みを受けるまでは途中で信仰を捨てるなどという短気を起こしてはいけないのです。私も忍耐をもって熱心に待ちます。 祝福を祈ります。