今日の聖句 1月14日(木) そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦され る。 イザヤ33:24 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と 言われた。 マルコ2:5 ************************************* 今週のテーマ:イエスとヨハネ きょうの聖書:ルカ3:1-16 ルカの福音書3章16節17節 私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力の ある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもあり ません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 「反抗心」 先日は、マタイの3章で平行記事を読みました。もう一度、バプテスマのヨハネ の言葉を考えてみます。洗礼を受けるためにヨルダン川にいるヨハネの所へ来た 群衆は、もしかするとこの洗礼を与えている人物が預言されていた救い主では無 かろうかと考えたのです。 それで、ヨハネは自分は水で洗礼を与えているが、神様から遣わされる救い主は 水ではなく、聖霊のバプテスマを授けるのだと語り、自分は救い主ではないと明 確に否定しました。ヨハネは救い主が登場したときに、ユダヤ人が救い主を救い 主として受け入れることができるように準備の働きをしているのです。 聖霊のバプテスマと火のバプテスマの二つがあるわけではありません。二つとも 同じです。水のバプテスマの場合、受洗者のからだは完全に水の中に入ります、 それと同様に聖霊のバプテスマの場合も、救い主を信じる人は完全に神様の愛の 中に全人格が入り、神様の愛で覆われてしまうのです。完全な救いを受けるとい うことです。 この完全な救いを受けようとする人には神様に対する反抗心があってはならない ので、バプテスマのヨハネはユダヤ人に、神様に対する反抗心を捨てて救い主を 待ちなさいと語っているわけです。私たちの場合も同じです。神様に対する反抗 心を心に抱いたままでキリストを礼拝するということはできないのです。お祈り の前にも、聖書を読む前にも、日曜礼拝に出かける前にも反抗心を捨てていくこ とが肝心なのです。 祝福を祈ります。