今日の聖句 6月20日(土) 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 イザヤ53:5 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私 たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あな たがたは、いやされたのです。 1ペテロ2:24 ************************************* 今週のテーマ:主の道を歩む きょうの聖書:イザヤ59:9-15 イザヤ書59章9節10節 それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光 を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たち は盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、 たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。 「救いと和解の道」 公義は私たちから遠ざかりとは、私たちには救いは届かないということです。義 は私たちに追いつかないとは、私たちは正しい人間にはなれないということで、 目のない者のように手さぐりするとは、私たちはどうしたらいいのか分からない ということです。やみの中にいる死人のようだとは、私たちは絶望しているとい うことです。 イザヤは、神様に背いて罪を犯したイスラエルには救いはないと言っています。 途方に暮れるという言葉もあり、万策尽きるという言い方もありますが、神の民 イスラエルは偶像礼拝という罪のために、前途を失い挫折してしまったのです。 イザヤが預言活動していたころ、北王国イスラエルはアッシリヤに攻め滅ぼされ てしまい、更に100年ほど後には南ユダ王国もバビロニヤに滅ぼされてしまっ たのです。 このイスラエルと全世界のすべての人を救うためには神様の御子であり、神様の 分身でもあるイエス・キリストが神様の民の罪を一身に引き受けて処罰されなけ ればなりませんでした。救いの道はキリストの十字架以外にはなかったのです。 神様はご自分の御ひとり子を、ご自分の宝の民イスラエルの手によって殺させ、 全世界の人々との和解の道を切り開いたのです。 救いを求めて多くの人が教会へ来ます。救いを求めて多くの人が祈ります。しか し、救いの確信は与えられず、正しい人になろうと思って努力しても、気がつけ ば罪を犯しているだけの自分しか見えません。滅亡する前のイスラエルとそっく りです。ところが、既に私たちには十字架が示されているのです。イザヤは未来 におけるキリストの救いを預言しましたが、今やそれは既に実現して私たちの手 に入っているのです。私たちが救われるのは十字架です。私たちが正しくされる のはキリストを信じることによるのです。道は与えられました。 祝福を祈ります。