今日の聖句 11月11日(火) レバノンの雪は、野の岩から消え去るだろうか。ほかの国から流れて来る冷たい 水が、引き抜かれるだろうか。それなのに、わたしの民はわたしを忘れ、むなし いものに香をたく。 エレミヤ18:14-15 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを 石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子ら を幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。 マタイ23:37 ************************************* 今週のテーマ:終わりの時 きょうの聖書:マタイ25:31-40 マタイの福音書25章35節36節 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが 渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸 し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わた しを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。 「一人にしない」 終わりの時への備えが教えられています。終末においてキリストが再び天から降 り、神の御国の王座につくとき、キリストを信じて神様と人々を愛して生きてい た人はキリストと一緒に神の御国を相続するのです。イエス・キリストを否定し て、互いに愛し合うということをしなかった人は、神の御国には入れないという ことです。 キリストを愛すということは、キリストを礼拝することですが、その実質は、キ リストが私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合うことなのです。衣食住 に事欠き、病気になり、牢屋に入れられているような弱い立場の人に助けの手を 差し伸べることが、実はキリストを愛すことなのだというのです。 弱者保護に生きている人は、自分がキリストへの愛を実行しているとは余り考え ないかも知れません。逆に、自分はキリストを十分に愛していると考えている人 は、弱者保護の精神は持っていないかも知れません。罪深い人は自分が罪人だと は思わず、心の清い人は自分は罪深い人間だと思うものです。 私たちは、夜寝る前か、或いは朝起きてすぐか、明日は誰を訪ねよう、明日は誰 に手紙を書こう、ということを考えます。面会し、手紙のやりとりをし、メール や電話で通信し合うところに私たちの愛の交流があります。自分も一人にならな いように、家族や友人も一人にしないように、手を取り合って生きていきましょ う。それが終わりの時への備えなのです。 祝福を祈ります。