今日の聖句3月22日(土) 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 伝道の書3:1 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わ たしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いて いるすべてのことが実現されるのです。 ルカ18:31 ********************************** 今週のテーマ:イエスのいましめ きょうの聖書:ヨハネ10:31-38 ヨハネの福音書10章37節38節 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないで いなさい。しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられな くても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいる ことを、あなたがたが悟り、また知るためです。」 「偏見」 現実を見ることをせず、風聞に踊らされ、現実から目をそらせている間に破綻に 陥ることがしばしばあります。逆に、混乱の中でも、現実を見直し、事実を把握 し、真実を見い出すなら秩序への道が開かれていきます。イエス様に敵対するユ ダヤ教の指導者たちはイエス様の行っている御父の御業が現実のこととして見え ていませんでした。 イエス様がなさったことを見ればイエス様が神様であることは一目瞭然です。死 者を生かし、病人をいやし、波と風をしかりつけて湖を凪させました。目や耳の 不自由な人を解放し、五千人の人たちに豊にパンを与えて力づけ、水をぶどう酒 に変えたこともありました。イエス様は死んでも復活したのです。これを見落と してはいけません。 私たちの人間関係においても、何が事実で何が現実であるかを見定めて一つ一つ の問題処理に当たっていく必要があります。偏見というものが人を真理から遠ざ け、一方的な見方が全体像をゆがめたり、隠したりしてしまうのです。ユダヤ教 の指導者たちには人間としてのイエス様だけしか見えないのです。 イエス様のなさったことが、神様でなければできないことばかりであることを現 実の出来事としてしっかり見定めなければならなかったのです。私たちは自分の 身に危険が迫っていても、自分だけは安全だと考える傾向があります。それが一 方的なのです。良いにつけ、悪しにつけ客観的に事実を事実として見定める習慣 を養う必要があります。 祝福を祈ります。