「今西錦司生誕100年記念シンポジウム参加報告 」

本文、画像:Jimmy


日時: 2001年10月6日 13:00〜18:00
場所: 京都教育文化センター
 

 

 先日の土曜日、今西錦司生誕100年記念シンポジウムが京都で開催されました。参加して参りましたので、簡単にご報告させていただきます。

 前日に会場となる京都教育文化センターに事前に確認したところ、「お問い合わせが多いので混み合う可能性もあります。」との返事を受け、当日は30分ほど前に着くよう、余裕を持って出発しました。

 受付で名前や住所等を登録した後、会場に入るとさすがにまだ空席が目立ちましたが、開始時間になる頃には満席となり、補助イスが準備されたものの、最終的には立見の人が出るほどの盛況で、今西氏の人気を改めて感じさせられました。

 参加した人の年齢層はかなり幅広く、大学生の姿も見かけましたが平均年齢は60才代と言うところでしょうか。落ち着いたムードの中にも同窓会的な雰囲気が漂い、京都大学霊長類研究所、京都大学学士山岳会(以下AACK)のOBの方々が大勢参加されているように感じました。

 

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今西錦司生誕100年記念シンポジウム ポスター


 最初に長尾 眞京都大学総長の挨拶がある予定でしたが、出張先からの到着が遅れいているとのことで予定が変更になり、梅棹忠夫(国立民族学博物館顧問)、斉藤清明(毎日新聞編集委員)両氏による「今西錦司の人間像」を語ると言うタイトルの座談会から始まりました。

 梅棹氏は、伊谷純一郎(故人)、川喜田二郎両氏と共に、今西氏の直弟子と言うべき人で、その生涯を通じて今西氏の生き様を見届けてきた一人と呼ぶにふさわしい方かも知れません。後年、目を悪くされてご不自由になられたとは言え、現在も精力的に著作活動を続けられており、座談会でも滅多に聞くことができない裏話を披露されていました。幾つかをご紹介させていただきますと、

 「今西さんに調査報告書や論文を提出すると、原文がなくなるほど修正されて帰ってくることも良くありました。いい加減、腹の立つこともありましたが、それでも離れられない不思議な魅力を持った人でありました。振り返ってみると、今西さんにほめられたことは、生涯を通じて一度だけだったようにも思います。(笑)」

 「今西さんはお酒が大好きで、満州の西北研究所時代に遊牧民の調査を行っていた時でも、見たこともないような得体の知れない酒を入手し、飲んで道ばたでひっくり返っていたようなこともありました。年を取ってから体調を崩し、医者から酒はお銚子一本に制限された時も、3合徳利なるものを探し出してきては、毎晩飲んでいたようです。これには、さすがに医者も呆れていたと聞いています。(笑)」

 「このような事ばかり言うと、そうとう自分勝手な人のように聞こえますが、実際にそうでした。(笑) しかし、その反面計画を実行に移すためには非常に緻密な計算をされていたのも事実で、人を見る目とその人の能力を把握することに関しては、大変優れていたように記憶しています。とにかく、あの人は生まれつきのリーダーであったと思います。」

 所定の時間が過ぎても、まだまだ話は尽きないようでした。このように今西氏にまつわるエピソードは話し出したら切りがない様子でした。  

 今西氏が中心となる組織では、「団結は鉄よりも固く、人情は紙よりも薄し」がモットーになっていたそうで、一見非情そうに聞こえます。しかしながら、あることを共通の目的として集まったグループであるならば、それを達成するためには必要な条件として理解できるような気がします。 

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斉藤清明氏と梅棹忠夫氏

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国立民族学博物館顧問の梅棹忠夫氏



 今西氏が創設したAACKの歴史について、後輩に当たる神戸大学名誉教授の平井一正氏がビデオ映像を交えながら、詳しく説明されました。

 ヒマラヤ遠征を目的に組織したAACKは、世界第2の未踏峰(当時)K2登頂計画を立案し、入山許可申請等のため現地に人を派遣し交渉まで行っていたにも関わらず、満州事変や太平洋戦争により断念せざるを得なくなりました。その間、今西氏はパイオニアワークの矛先を山から大陸に移し、京大山岳部の学生を引き連れて、『大興安嶺探検』(現在の中国東北部からロシア国境にかけての広大な山岳地帯)を実施し、それまで地図の空白域だった未開の地探検に見事成功を収めたのでした。

 戦後、再びヒマラヤ遠征を目指した今西氏はAACKの活動を再開し、1952年に日本山岳会マナスル登山偵察隊として生まれて初めてヒマラヤに足を踏み入れ、4年後の本隊を登頂成功に導きました。その後、1958年にはAACK単独でチョゴリザ初登頂を果たすのです。

 その後も、AACKはヒマラヤ遠征を繰り返し、サルトロカンリを始め輝かしい初登頂の記録を数多く残しましたが、同時に事故も相次ぎ、近年では中国の梅里雪山での大量遭難が記憶に新しいところでもあります。

 このような70年に渡る輝かしい歴史を持ち、初登頂を目的として活動を続けてきたAACKも、後継者となる大学山岳部の衰退や、今日ヒマラヤに著名な未踏峰が見当たらない状況のなかで、その存在意義が問われるようになっているのが現状です。

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平井一正 神戸大学名誉教授



 基調講演をされた長尾 眞京都大学総長は、経験主義的な考え方で学問を推進している京都大学の学問研究活動そのものが、京都学派と呼ぶにふさわしいものであり、その礎を築いたのが西田幾太郎や木原均、今西錦司のフィールドワークであると述べておられました。

 また、私が印象的だったのは、単にこのシンポジウムが今西錦司の足跡や業績を好意的に評価するだけの場にするのではなく、正当な評価を与えられる価値のあるものであるか否かを問い直す機会にすることが重要だと説いておられました。まったく、その通りだと思います。以下にその内容の一部を掲載させていただきますので、ぜひともご一読ください。

 我々は、京都学派の学問をより発展させるために、深い省察を行わねばなりません。京都学派の学問は世界の学問たりえているか、と言う問いを発せねばなりません。

 西田哲学や今西の棲み分け理論といったものが、ハイデガーやダーウィンのような認知と評価を世界から受けることが出来るか、そのように我々が京都学派の学問を今後構築して行けるかと言う問いであります。

 学問が世界的に広く受け入れられてゆくためには、一般の人たちにもよく理解できるように体系的に組織化され、誰もがそれを使って自分の世界をその上に作って行けるものでなければなりません。ところが、歴史的に見て一日本人の作り出してきた学問・思想は、しばしば天才的な直感の世界において全一的に把握されるものであり、いわば心身一如の不立文字の世界であります。

 それは、精神的に非常に深いものを持っていますが、残念ながら人々にやさしく理解できるという合理性の観点に欠ける自己完結的な孤高の世界であり、誰もがここに近づいて来て理解し利用するということにはなりにくいのであります。

 たとえば、今西の棲み分け理論や進化論が、多くの人がそれを使って自分の研究をさらに推進するということにはなっていないわけであります。こういった障壁をどのようにして乗り越え、今西の学問的業績を更に発展させ、真に世界に開かれた学問・方法論というところにもって行くところが出来るかどうかが問われているものと思います。

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長尾 眞 京都大学総長



 皆さんもよくご存じだと思いますが、有名なジャーナリストであり今西氏を恩師と仰ぐ本多勝一氏の講演は、非常に刺激的な内容でした。本多氏は、かねてから登山(正確にはAACKを初めとする京大山岳部における登山)とは、初登頂を目的とするパイオニアワークでなければ意味がないとする今西氏の考え方に共感を覚え、それを師事し続けてきたと共に、今日もその考え方に修正を加えるつもりはないとしています。

 しかしながら、当の今西氏は随筆集『そこに山がある』(1973年)に掲載されいてる講演内容を読む限り、どうも考え方に大きな変化が見られるようだと述べています。その内容の一部を掲載させていただきます。

 マロリーの「何故、山に登るか。何故ならば、そこに山があるから」と言う有名な言葉には山を限定していない。マロリーは、「そこに人のまだ登っていない山があるから」などとはいっていない。そこに山さえあれば、その山は人が何遍登った山であっても初めて人の登る山であっても、そんなことはかまわんのやないかと思うのです。とにかくそこに山があるから登る。それでええのやと思いますね。だから、登山の一般からいいますと、初登の山だから登るというのは、むしろ特殊なケースに属する登山だということになります。

 これに対する本多氏の考え方をまとめると、以下のようになります。

 これが、あの「登山上の正統派なるものは、初登山を求める人たちをおいて、また他にない」と断言して颯爽と岳界をリードした30才当時の今西氏と同一人物の発言であろうか。「正統派」がいつのまにか「特殊なケース」に変化した理由も明らかにされていない。何よりも、マロリーが「処女峰としての世界最高峰」に関して語った《名言》が、このように「山さえあれば、人が何遍登った山であっても」の意味だとする解釈は、どういう根拠があってのことか不明だが、こういうことはありえぬだろう。これは推定だが、今西氏は自分が高齢となって激しい登山ができなくなったので、こうであってほしいと言う願望から身勝手な解釈を求めたのかも知れない。同様の誤った解釈(誤訳)は、日本百名山で有名な深田久弥氏も犯している。

 このように、師と仰ぐ今西氏に対して本多氏があえて批判したのは、今西氏の晩年の登山に関する考え方には同調できないものとして、このまま黙っていると自分の考え方までもが今西氏と同じであるかのように誤解されてはたまらないと思ったからだそうです。この件について、本多氏は明確に「今西氏は堕落した」と言い切っていました。そうなってしまった原因はいろいろとあるかもしれないが、高齢になって、地位も名誉も手に入れたことによることも一因として挙げられるのではないかと語っていました。

 本多氏の首尾一貫した考え方を、過去から現在まで守り続けることは、確かに素晴らしいことであり、師の変節に対して嘆き悲しむのももっともかと思います。しかしながら、年と共に考え方が変化して行くのも人間の本質であり、それが如何に先駆者たる偉大な人物であったとしても、避けがたい現実なのではないでしょうか。もっと突き詰めて言えば、変わるほうが一般的であって、変わらないほうが特殊なケースのように思えます。

 多くの優秀な学者、研究者、登山家を育ててきた今西氏にあっても、多分にその例から漏れることはないのでしょう。それよりも、このような人間くさいところを併せ持つ今西氏だからこそ、没後10年を経過した今でもこれほど人を引きつけるのではないでしょうか。私は、そのことを心の底で本多氏もわかっているような気がしてなりません。 

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熱弁を振るう本多勝一氏


 最後になりましたが、このシンポジウムを通じて、今西氏の魅力とそれを共有する人々の層の厚さに感動しました。棲み分け理論と呼ばれる今西進化論にしても、学界では積極的に評価されず、このまま忘れ去られて行く可能性もあります。しかしながら、そのようなことには一切関係なく、自然学を標榜する思想家今西錦司として、今後も愛され支持され続けて行くだろうと確信しています。私も、これを機会に今西錦司の世界を一から勉強し直そうと思っている今日この頃です。


主な参考文献:
今西錦司全集 全13巻 別巻1
新版 山を考える(本多勝一)
評伝 今西錦司(本田靖春)
今西錦司−自然を求めて(斉藤清明)
今西錦司−その人と思想(川喜田二郎監修)

 

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